こんにちは、Ayubowan! 4月から横山研究室・業務協力者の柴辻です。
今年の2月、私はお休みを頂いて3泊5日でスリランカに遊びに行ってきました。実は
サンフランシスコ講和条約の時、スリランカの代表が日本に対する賠償請求権を放棄
してくれた、という有名な史実があるのですが、私はそれを知りませんでした。ツア
ー一行がネゴンボ空港に到着して大型バスで出発するなり、現地ガイドがこの話をし
て「だから日本の皆さんはそのお礼として少しでもいいからスリランカでお金を使っ
てくださいね」というのです。私は思わず財布を握りしめ、もう日がとっぷり暮れた
ネゴンボ郊外の風景をバスの窓から観察しました。
①ホテルから見たシギリアロック |
空港からの道路には照明灯がなく、走っている車やたまにいる自転車もライトはつい
てないようで、外はほぼ闇です。目をこらして見ると、そんな闇の中を人が歩いてい
るのがわかります。次の日からも観光バスの窓から外を見ていると、何もない田舎道
をどこから来てどこに行くのか、一人で歩いている人がよく目にとまります。たまに
犬も歩いています。なぜ目にとまるかというと、犬や人の歩く姿に何だか存在感があ
るのです。人はほとんど手ぶらだったり、小さな買物袋みたいのしか持ってないのに
、この存在感は何でなのか、気になってきました。
②町の酒屋と門番のおじさん |
思い起こせば私が学生の頃、京都に「河原町のジュリー」という有名な浮浪者がいま
した。彼の毎日の巡回コースは決まっていて、私は一度、河原町通を歩いてくる彼と
すれ違ったことがあります。その迫力と臭気に血が逆流する思いがしました。それで
も、大学の教育哲学の先生は「存在感のある歩き方ができるのは河原町のジュリーだ
け」と授業で褒めていたのです。スリランカから日本に帰って、柏駅からバスに乗り
、歩いている日本人を窓から観察しましたが、どうも存在感は感じません。ジョギン
グしている人はまだましです。考えてみるに、スリランカの田舎道を歩いていた人も
、河原町のジュリーも、きっと「無念無想」で歩いていたに違いないと思いつきまし
た。まあこれは私の推測です。
③古都キャンディの朝 |
さてスリランカは国民の半数が仏教徒です。子供は小学校でパーリ語のお経を少し習
うそうです。この子供たちが成人して、人生でいきづまったりした時、心はパーリ語
のお経に帰りつくのでしょうか。もしそうであるなら羨ましいことだと思います。こ
こではブッダは日本でより敬われ、日本でより身近な存在に感じました。私は何にで
も感化されやすいので、すぐにスリランカの小乗仏教のファンになりました。(たち
まち忘れましたが。。)
スリランカは宗教も自然も多様性のある魅力的な国です。背の高いココ椰子やバナナ
の林は見てて見飽きることがありませんでした。シギリアロックの上から見渡すジャ
ングルは爽快、途中の洞窟壁画の美女も感動的です。今度はツアーではなく、個人旅
行で行ってみたい。スリランカにフィールドワークで行かれる方、ぜひ私も同行させ
てください!